父堀内光雄の葬儀・告別式で、葬儀委員長を務めて頂いた安倍晋三首相の弔辞を、高村正彦自民党副総裁が代読してくださいました。

安倍首相は会期末の大変お忙しい中、焼香にかけつけてくださいました。

また、宏池会会長の岸田文雄外務大臣と後藤斎山梨県知事からも弔辞を賜りました。

安倍首相の弔辞の後半部分で、私堀内詔子について、過分なご評価と、これからの進む方向について「共に我が国とご地元である山梨県の発展に全力を尽くす…」とのお言葉をくださいました。大変心強く、総理のお言葉にお応えするべく全力で政治の道に取り組んでまいります。

 

葬儀委員長 安倍晋三内閣総理大臣の弔辞(全文)

弔 辞

勲一等旭日大綬章、元通商産業大臣、元労働大臣、元自由民主党総務会長 故堀内光雄先生の、「堀内家・自由民主党・富士急行株式会社 合同葬」に臨み、謹んで哀悼の辞を捧げます。
政界をご引退された後、昨年まで、富士急行株式会社の会長をお務めになり、その後は穏やかにお過ごしになっていらっしゃると伺っておりましたが、余りにも突然の訃報に、 驚きを禁じ得ませんでした。
生者必滅が世の習いとはいえ、政治・経済・文化・道徳等の問題に高いご見識をお持ちの政治家として尊敬していた先生を失ったことは、残念でなりません。
先生の細やかなお心遣いと、温順篤実なお人柄に支えられた多くの方々が、今日、先生とのお別れに集まっております。

昭和五年一月一日、衆議院議員をお務めになった堀内一雄先生のご子息としてお生まれになった先生は、ご両親から「ダイヤモンドや竜の目玉のように、光り輝く人間に育ってほしい」との願いを込められ、「光雄」と名付けられたと伺っております。
山梨県立甲府第一高等学校から、慶応義塾大学経済学部に進まれ、優秀な成績でご卒業された後は、富士急行株式会社の社長として御活躍されました。
この頃の我が国は、高度成長を続けていた経済を石油ショックが襲い、大きな危機に直面しておりました。
経営者として、生きた経済の現場にいた先生は、この危機にあって、今こそ政治の世界で役に立つ時とご決断され、昭和五十一年の第三十四回衆議院議員総選挙において、当時の山梨県全県区から出馬し、見事、初当選を果たされました。
以来、当選回数は十回、二十九年余の長きに亘り、国家国民の為、そして、地元の山梨県の皆様の為に全力を尽くされました。

ご両親が願いを込めたお名前のとおり、昭和から平成の日本の政治において、燦然と光輝くご功績を残されたのでございます。
多岐に亘る堀内先生のご功績は枚挙に暇がございませんが、敢えてその一端をご紹介すれば、政府では通商産業大臣、労働大臣、衆議院では社会労働委員長を歴任され、党にあっては総務会長、総務局長をご経験されました。
経営者としてのご経験を最大限に活かした先生は、「経済の堀内」と呼ばれ、我が党における屈指の政策通として、与野党問わず全ての国会議員は勿論、経済界を含む各界から尊敬の念を集めた、稀代の政治家でいらっしゃいました。
政治家として先生が貫かれた信念、それはまさに、「霖雨創生」のお心であったと申し上げたいと思います。

常に消費者の目線に立って実現された数々の政策は、中小零細企業や地方の商店街を支え、農業、観光、インフラ整備、流通促進、治安の向上など、あらゆる角度から国民の生活を豊かにするものでございました。
また、先生が初当選のときから実現を目指して取り組みを続けてこられたのは、リニア中央新幹線でした。二十一世紀の我が国の経済、社会を支える、夢の高速鉄道であります。先生は、「リニアは国家プロジェクトである」との信念のもと、文字通り、全身全霊を傾け、その実現に尽力されました。先生の描いた二十一世紀の国家像を実現するため、リニア中央新幹線の開業に向け、我々も全力でこの国家プロジェクトを進めて参る
ことをお誓い申し上げます。

堀内先生、我が国には、内外に多くの難題が山積しております。次の五十年、百年の時代の荒波に耐えうる新たな国家像を描こうという、この時節に際して先生を失ったことは、まさに痛恨の極みではありますが、我が党には、先生のご遺志を受け継いだ堀内詔子衆議院議員という、素晴らしい政治家が育っています。
「国民の心を政治に映す」という信念のもと、教育、医療、介護、そして地元の皆様の為に、日々、全力で奮闘している姿は、まるで、堀内先生の在りし日のお姿のようでもあります。
我々は、堀内詔子さんと共に我が国とご地元である山梨県の発展に全力を尽くして参ることをお誓い申し上げます。

これからは、先生と苦楽を共にされ、先生を支えてこられた奥様と、ご親族の皆様をどうかその優しい瞳で、いつまでも温かくお見守り下さい。
我々は、霊峰富士の美しい姿を見る度に、先生の慈悲深いその笑顔を思い出し、先生の在りし日のお姿を偲びながら、今後とも国家国民の為に全力を尽くして参ります。
先生、富士急ハイランドには、今日も子供達の笑顔が溢れています。この笑顔を、我々自由民主党は、永遠に守り続けて参ります。
ここに改めまして、堀内光雄先生のご功績とお人柄を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げ、お別れの言葉と致します。

平成二十八年五月三十日

内閣総理大臣 自由民主党総裁
安倍晋三

代読 〜 自由民主党副総裁
高村正彦


 

宏池会会長 岸田文雄外務大臣の弔辞(全文)

弔 辞

勲一等旭日大綬章、元通商産業大臣、元労働大臣、故堀内光雄先生の堀内家・自由民主党・富士急行株式会社合同葬にあたり、謹んで哀悼の誠を捧げ、お別れの言葉を申し上げます。

去る十七日、堀内光雄先生は逝去されました。長く国政でご活躍され、私自身、初当選の時から多くのご指導を賜りましたことを振り返ったとき、言葉では言い表せない、深い悲しみを覚えずにはいられません。

堀内光雄先生は、国政においては通商産業大臣・労働大臣など、自民党においては総務会長などを歴任され、そして私ども宏池会の会長をお務めになり、国政に多大なご貢献をされてこられました。

また衆議院議員引退後も東京に事務所を構えられ、折に触れて我々後輩は多くのご指導を頂いておりましたし、同時に富士急行株式会社社主として広くご活躍されておられました。

その中において、このあまりにも突然の訃報は、驚きを禁じ得ず、残念であり、多くの関係者にとって誠に惜しみても余りある痛恨の極みであります。

本日ここに永訣の時を迎えましたが、私自身、山梨県の富士急ハイランドで毎年行われる宏池会研修会で、先生にいつも柔らかい笑顔でお出迎え頂いていたことが、昨日のことのように思い返されます。

堀内光雄先生が衆議院議員選挙に初当選されたのは、昭和51年の第34回衆議院議員総選挙でしたが、この年はいわゆるロッキード事件によって国民から政治に対する強い不信感が高まっていた時でした。堀内先生はこの逆風選挙において「清潔な政治の実現」を訴え、見事初当選されました。

以降衆議院での当選10回を重ね、30年の長きにわたって国政のため、地元山梨のために心血を注がれ、そして常に「クリーンな政治家」のお手本として政治家の中心であり続けておられました。

その政治家としての高い見識と豊富な知識のもと、山積する課題を前にして敢然と立ち向かい、常に国民に寄り添いながら、バランス感覚に優れた決断を下しておられ、おおくの政治家から尊敬の念を寄せられていました。

堀内先生のご功績を挙げると枚挙にいとまがございません。

富士急行株式会社を現在の富士急グループまで成長させた経営能力をはじめ、その実績から「経済の堀内」として広く知られ、行財政改革が最重要課題であった鈴木善幸内閣の時には行政管理政務次官として行政の中から改革を強力推進されましたし、「自分にあった仕事を探すため、気軽に立ち寄られる場所に」と職業安定所をハローワークと名付けたのも、当時労働大臣だった堀内先生でした。

通産大臣の時には、山一證券の破綻などで日本中が揺れた金融危機に対して、通産大臣として政府系の金融機関の融資枠拡大など辣腕をふるわれ、連鎖倒産を食い止められました。

また官僚の強い抵抗を押し切り、独自に調査して突き止めた不良債権の処理のために石油公団の廃止を現職大臣として主張し、大臣退任後も粘り強く取り組んで石油公団廃止法成立への道筋を付けられたのも堀内先生の特筆すべきご功績です。まさに「経済の堀内」の面目躍如と言えるでしょう。

さらに自民党総務会長を3年5ヶ月の長きにわたり務められました。外交成果や経済成長には何より政治の安定が重要です。党の常設の最高意思決定機関たる総務会が堀内会長のもと安定して運営されたことは、誠に国益に資するものでありました。

私が衆議院議員に初当選したのは平成5年の第40回衆議院議員総選挙でしたが、その結果、自民党は結党以来、初めての野党に転落しました。当時、堀内先生は党改革本部長として、自民党の再生に力をふるっておられました。

その後自民党は与党に復帰しましたが、常にその先頭には堀内先生の、国民に真正面から向き合い、国民の目線で政治に取り組み、同時に広い視野でもって決断を下す、政治家としての毅然とした姿がありました。いま私が外務大臣を、そして宏池会会長を務めることができているのも、堀内光雄先生のご自身の政治姿勢を間近で見ることができたこと、そしてなにより直接ご指導を頂けたことによるものであり、感謝の言葉は尽きません。願わくば、もっと長くご指導賜りたいと思っておりました。しかし、それも叶わなくなってしまいました。

堀内先生、今まで本当にありがとうございました。

御遺族、御親族の方々の胸中は、まさに悲嘆と断腸の極みかと存じます。

しかし富士急行株式会社においては堀内光一郎社長、衆議院議員としては堀内詔子さんという、素晴らしい後継者のご夫婦がおられます。

我が国においては内外の課題が未だ山積しておりますが、このお二人は必ずや堀内光雄先生の偉大な足跡をしっかり継いでいかれるものと確信しております。

そして我々同志・後輩一同も、堀内光雄先生のご意志を継ぎ、この難しい国政の舵取りの中、必ずや我が国を発展させるべく、あらん限りの力を尽くして参ることをお誓い申し上げる次第です。

名残は尽きず、哀惜の念は募るばかりですが、ここに改めて堀内光雄先生のご功績を称え、心よりご冥福をお祈り申し上げ、惜別の言葉と致します。

平成二十八年五月三十日

外務大臣 宏池会会長 岸 田 文 雄

 


 

後藤斎 山梨県知事の弔辞(全文)弔辞

 

本日ここに、堀内光雄先生の御葬儀告別式が執り行われるにあたり、謹んでその御霊に心からの哀悼の言葉を申し上げます。

今こうして堀内先生の御遺影の前に立ち、御尊顔を拝しておりますと、数々の思い出がよみがえり、先生を失った悲しみが改めて胸に迫って参ります。

また、御家族、御親族様のお悲しみは如何ばかりかと心よりお悔やみ申し上げます。

堀内先生は昭和五十一年の衆議院選挙において当選以来、国政の場において 労働大臣、通商産業大臣、自由民主党総務会長などの要職を歴任され、国家国民のため多大な御貢献をされてこられました。

また、リニア中央エクスプレス建設促進国会議員連盟の会長として、リニア中央新幹線の実現を強力に後押し頂くとともに、中部日本横断自動車道建設促進議員連盟の会長として、中部横断自動車道の建設促進にお力添え頂くなど、山梨のみならず我が国の将来を見据えた交通基盤整備に御尽力を賜りました。

さらには、富士急グループを率い、富士山を中心とした総合観光事業を展開され、特に山梨においては、富士北麓地域はもとより、山梨の観光産業発展の礎を築かれ、本県経済を牽引する成長産業に育てあげられるなど、ふるさと山梨の発展に多大な御貢献を頂きました。

堀内先生は私にとりまして、何と申しましても山梨県立甲府第一高校の大先輩であり、私が衆議院議員に初当選した際には親しく御指導を頂き、その後におきましても、時に父親のような威厳を持って、時に兄のような寛大なお心で 御指導を頂きました。

堀内先生のお言葉は、私にとりまして政治家としての道しるべとなり、今も県政運営の糧となっております。

また、堀内先生は温和なお人柄であるとともに、大義を重んじる方でありました。

「任怨分謗」 これは大平正芳元総理が好まれた言葉であります。「自分が 正しいと思ったこと、全体のために最善と思われることについては、たとえ一部の人から怨みを受けようとも実行しなければならず、また、いったん志をともにした以上は一心同体となってその怨みを分けて受ける気概がなければならない」ということであります。

堀内先生は、まさに政治家として大義を重んじ、この言葉を実行された方であったと、私は今、改めて実感しております。

そして政治家の後輩として、私もこの言葉をしっかりと心に刻み、ふるさと山梨の発展のため、力を尽くして参ることを堀内先生の御霊にお誓いしたいと思います。

お名残り惜しくはございますが、お別れの時が参りました。

改めて堀内先生の御生前の御功績に心から敬意を表し、山梨の行く末に先生の御霊の御加護を賜りますことを切に願い、お別れの言葉といたします。

どうぞ安らかにお眠り下さい。

 

山梨県知事  後 藤 斎

 

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